碌山美術館

Love is art, Struggle is beauty. 愛は芸術なり、悶えは美なり

荻原守衛(おぎわらもりえ)

碌山ろくざん美術館は、日本近代彫刻の扉を開いた荻原守衛(号 碌山)と、彼と関係の深い芸術家の作品を保存・公開しています。
碌山は1879年、現長野県安曇野市穂高に生まれました。
1903年に渡仏し、パリの美術学校で絵画を学びましたが、ロダンの「考える人」に衝撃を受け、彫刻に転向しました。
1907年には、ロダンのもとを訪れています。

碌山美術館

碌山美術館は、1958年に開館した碌山館杜江もりえ館(2008年開館)、第1展示棟(1982年開館)、第2展示棟(1996年開館)、事務棟、休憩室「グズベリーハウス」(1968年建設)、受付・ミュージアムショップの建物で構成されています。

碌山館の設計は、長崎県の日本二十六聖人殉教記念館を手がけた今井兼次によるものです。

長野県下の全小中高等学校の学生が5、10円の寄付をはじめ、アメリカに渡った憲政義塾出身者など、およそ30万人の人々の寄付と支援で碌山美術館は、開館しました。

建設にあたって、次の3つの基本構想で進められました。

① 碌山が若くしてキリスト教による影響を
 受け成長した精神を象徴すること
② 明治時代の作品を収納するにふさわしい
 明治建築の構成を持つこと
③ 信州の厳しい飢餓に耐えられる北欧風の
 建物であること

この構想を基に、今井は教会様式の設計を行いました。

碌山館建設委員会の委員長、彫刻家の笹村草家人の求めに応じて、日銀総裁、大蔵大臣を務めた渋沢敬三は、清水建設を紹介しました。

渋沢は民族学者として、優れた民族資料の収集でも知られていました。そして、碌山美術館建設に理解を示し、全面的な支援を継続しました。

清水建設、専務(当時)の吉川清一もまた、清水建設東京支社を訪れた笹村草家人らに、採算が合わないことを承知で、協力を惜しまないことを約束しました。
清水建設では勢いのある若手技師を、進行中のほかの現場から呼び寄せ、碌山美術館の監督に着任させました。

湿気は、美術作品を保存するうえで作品に悪い影響を与えます。
建設地は、北アルプスの扇状地の(へり)に位置し、地下水の水位が高い地盤のため、 今井は、床を高くする設計にしました。床掘り工事、基礎コンクリート打ちなど、すべてが手作業で行いました。
外壁には、変形した焼き過ぎの規格外の煉瓦が使われました。通称「ねじれ」と呼ばれる煉瓦を使用することで、 基本構想の「明治を思わせる堅牢な建築」が具体化しました。

作品鑑賞に適した北窓からの自然光による設計は、アーチ型の優しい窓になり、外壁に変化を与えています。
やわらかな明かりを取り入れるために、亀甲型のメッシュ入りガラスが使用されました。

信濃毎日新聞社は、長野県の文化発展を推進する事業に力を入れて応援していました。 碌山美術館建設にも賛同し、碌山の鐘の寄贈を申し出ました。

信濃毎日新聞社の小坂武雄社長が視察に訪れた際に、笹村草家人が、鐘の取り付けと鐘撞きの構造を説明しました。また、鐘は、朝9時に9回、昼に12回、夕方5時に5回、鐘を鳴らすことも説明されました。

鐘の正面には、「碌山美術館、Love is art, Struggle is beauty.」と刻まれています。反対側には、碌山を支えた相馬黒光そうまこっこう戸張孤雁とばりこがん、高村光太郎、荻原本十おぎわはらほんじゅうの4人の名前が刻まれています。
鐘は100kg近くもあり、1日がかりでようやく取り付けられました。

庭には水仙が咲いていた

おわりに

碌山館の建設記録を8ミリフィルムに収めた画像が、碌山美術館ホームページに紹介されています。とても貴重な映像で、当時の様子がよくわかる内容になっています。

碌山美術館
【Home Page】
 http://rokuzan.jp

【アクセス】
 Google Map:https://maps.app.goo.gl/nsT1hXTypcSs6kS27

〒399‐8303長野県安曇野市穂高5095-1
Tel 0263-82-2094

〈車〉
 長野道 安曇野I.Cより約15分 無料駐車場あり
〈電 車〉
 JR大糸線 穂高駅より徒歩7分

開館時間
 11~2月 9:00-16:10
 3~10月 9:00-17:10
入館料  
 大 人 900円
 高校生 300円
 小中生 150円

休館日 ※ 5月~10月は無休開館
12月21~31日
月曜日と祝祭日の翌日


見出し

碌山美術館
 http://rokuzan.jp
碌山美術館パンフレット

コメント